「少年時代・ADDに気づくまで」NPO法人 場とつながりラボhome’s vi 代表理事 嘉村 賢州さん(前編)

活躍者インタビュー、一人目として応じてくださったのは、場とつながりラボhome’s vi 代表理事、嘉村賢州さんです。「場づくり」の専門集団を率いて全国を飛び回り、企業や行政、NPO団体に対し、新しい研修や会議・対話の場を作る若手を代表するファシリテーターです。

筆者(yu-ka)が20歳の時、ADDと診断され、絶望しながら本屋で発達障害に関する本を調べていた時、嘉村さんの事例が取り上げられている本を拝見し、大変励まされた経験があります。3年越しの願いが叶ったインタビューです。3編構成のうち前編は、彼がADDと診断されるまでの人生を振り返っていただきました。

嘉村賢州さん。前編・中編・後編、3回にわたって嘉村さんのストーリーをお届けします。

■賢州・小学生時代、紳士と魔法の袋

emo&yu-ka:本日はよろしくお願いします!まずは、学生時代どんな性格だったかお聞かせいただけますか?

嘉村 賢州さん(以下、嘉村さん):よろしくお願いします。幼稚園の時は、あまり大人数の中に馴染めてなかったかな。一人で滑り台を滑って、母の顔を見て必死に自分をアピールしていた当時の記憶に残っている(笑)。

卒業後は、3年上の兄が通う、国立大付属の小学校に行ったの。友達はたくさん出来たんだけど、クラス替えや夏休み明けに、「クラスメイトとどう接したらいいか」、距離感が分からなくなるんだよね。5年生の時に、初めて大親友とクラスが離れたときは、ほんと不安で仕方なかったし、兄のランドセルの紐をつかんで登校してたな(笑)。あっあと高校生までは、いつもクラスメイトを苗字に「君、さん」付けしていて、堅苦しかったんじゃないかなと思う。当時の同級生からは、「けんしゅうはいつも紳士だったよね」と言われるんだけど(笑)。大学になってようやく、サークルがニックネーム制を取っていたから、周りに合わせるようになったんだけど、1年経ってやっと慣れたね(笑)。

yu-ka:小学生時代を振り返って、特に「発達凸凹だな」と思われるエピソードはありますか?

嘉村さん:何でもかんでも物を詰め込んだ袋を、机の横にかけていたらしい。その『魔法の袋』があったから、忘れ物は少なかったんだと思います(笑)。あといつも、上履きを左右逆に履き、制服のシャツがズボンからはみ出ていたな(笑)。何故か、書類を出すだけなのに定期券の発行の手続きができず、気づけば1,2ヶ月経っていたことも。

 

■続かないこと、反して熱中できることも

嘉村さん:中学生の頃、読書感想文を書く課題があるのに本を最後まで読み切れなくて、高校に進学できるのかとヒヤヒヤしていた。単語テストは常に追試だったし、ほぼ、予習復習をできた試しがないかな。教科書、ノートを持ってくるのをよく忘れて、黒板の内容をどこにメモしたのかが分からないということもしょっちゅう(笑)。

中学生の頃に始めた、バスケやホルンの練習もすぐに辞めた(笑)。ただ当時、珍しかったパソコン(Windows3.1)を使って、RPGやアクションなどのゲームを作るのにすごく熱中していたね。

基本、何かを始めたくなるけど続かない!参考書の、『はじめに』を読むと感動し、あれも、これもって買ううちに、気づいたら100冊程家に揃っていた。だけど、どの本も5ページくらい読み、その後放置してしまっていたね(笑)。ただ、そうやってアンテナを張って情報収集をすることは好きだし、良い講師を見つける嗅覚が僕にはあって、講師・参考書ソムリエとして、皆に薦めていたな(笑)。

emo:(爆笑)100冊!すごいですね!『はじめに』を読んで、買ってしまうこと、とても分かります。

嘉村さん:予備校のとある講師を嗅覚でみつけて(笑)、実際その講師の授業をとることになった。その講師にはすごい影響を受けて未だにメッセージを心に響かせている。

「受験で人生は変わらない。本来学問とは学び問うもの。学んで人生が変わらないとしたらそれは学問ではない。早くつまらない受験勉強は終わらせて、学問でも旅でも恋愛でも命をかけれるような実存的な生き方を始めなさい」と。そのうえで、志望校に行けるかどうかは、「出来る・出来ないではなくって、行くつもりがあるかないかの問題、ただそれだけだ」と言われ、受験勉強の背中を押されたね。

■大学生時代、家を開放し1000人が集まる

yu-ka:大学生の頃、嘉村さんのお家を開放していたら、学生がたくさん集まったというお話を聴いたのですが。詳しく教えていただけますか。

嘉村さん:在学中に、ボランティアに関わる中で、皆で力を合わせてイベントやお祭りを創り上げることに、面白さを感じたんだ。結局、環境・地域活性・伝統工芸など、計100個くらいのプロジェクトに参加してきたんだけど、イベント本番を終えると参加メンバーとの関係性が終わってしまうことが、寂しいと思ったのね。その後、大学3,4年生になると、皆、就職活動でギラギラしていて。人脈つくりに夢中で、繋がることでメリットのない人に対しては冷たい。それを見て、損得抜きにもっと人間関係を築けないかな?って疑問が沸いたの。

そこで、キャンプや、皆で料理をするイベントを開催したけど、うーんって感じで。イベント内では人と繋がりたくて、みんなどうしても飾り合うから、素の状態で語りあうには時間が足りない!と気づいたんだ。

その後、自分の下宿を24時間365日開放し、集えばみんなでとことん話そう!というシステムを作って、そのコミュニティが広がっていった。

yu-ka:それがhome’s vi さんの前身となったんですね。

嘉村さん:まあ、始まったのには、恥ずかしいエピソードがあって。自宅から学校に通っている友達が、たまに「賢州の家に泊まりたい」って言っていたんだけど、僕の下宿は汚すぎて、「大学内で泊まろうよ、それか近くのカフェでもいいから」って、下宿に入れるのだけは勘弁って断っていたの(笑)。でも、ある打ち合わせで、場所がなくやむを得ず下宿を使うことになって。本棚の奥に荷物を詰め込んでいたけど、ある日共有スペースのみならず、その奥の自分だけのスペース含めて、全部片づける!と友達に言われ強制的に掃除タイムが始まった。

その時、プライド、人間の殻がバチバチ…って鳴って崩れ去るような感じがした。その日は片づけてもらって綺麗なったことよりも、自分のすべてがさらけ出されて放心状態だった。僕の中で、もうどうでもいいやって思った(笑)。

 

当時の下宿の様子につき、図に描いてご説明くださった嘉村さん。

 

一同:(大爆笑)

嘉村さん:そこから自分の下宿を開放し、沢山の方が来てくれた。でも、「賢州の下宿だから」ってみんな少し遠慮する。じゃあみんなで、大学近くの町家を借りようと引っ越しを決意。2005年に、学生町家コミュニティ「西海岸」をオープン。鴨川の西河岸にあるから、そういうネーミングね。2階は僕たちの住居にし、1階は24時間365日開放してコミュニティスペースに。

一見さんお断りでありながらも、信頼している人から紹介され1度訪ねると、次回以降「ピンポン、予約不要」という思い切ったシステムに。その後、事情により1軒屋へ引っ越して、新しい住居を「紅葉(もみじ)」、2つ目の拠点を「桜花(さくら)」と命名。結局、5年間で1000人の若者が訪れてくれた。

■社会人生活の大きな挫折

yu-ka:1000人も!すごいですね。大学卒業されてからの進路はいかがでしたか?

嘉村さん:もともとは仲間の一人であるAさんと、京都に残ろうねと北山の焼き肉屋『南山』で誓い合った(笑)。そして、「僕たちは片付けが出来ないしノルマを守れない、やるべきことが出来ていなくて、自立とは程遠い。このままじゃあかん、自分たちの改善リストを作って成果の出せる人間になろう。今ここから頑張っていこう」ってことで、二人で『from南山』っていうメーリングリストを作り、お互いの改善方針を書き連ねた。この時点で、まだ2人ともADDと気づいてないからね(笑)

一同:(笑)

嘉村さん:その後、10日で10万円もらえる、というITコンサル会社のインターンに参加し、3年以内であれば、いつでもその会社に就職できるという権利をもらった。当社のCOOの方のロジカルシンキングスキルの高さに、感動して。このスキルがあったら、社会をよくできそう。この企業で修行してみたいなと思って、早々とAさんを裏切り、東京で就職を決意(笑)。

もともとは期待されていて、グループワークの評価はオール5だった。ただ内定者研修と入社試験の成績順で、上位から並ばされるんだけど、会計などの座学のテストをするごとに、見事に総順位が下がっていった(笑)。

営業部に入った後、コミュニケーションは得意だけど、テレアポや「報告・連絡・相談(以下、報・連・相)」が出来ないことを認識した。一番ダメだったのが、「デモプレゼン」。60分間、立て板に水がごとく、ソフトウェアの説明をしないといけなかったんだけど。なかなか内容を覚えられず、そのテスト受験を渋っていたら、上司から、「早く受けよう。クリアすると、展示会で喋る権利を手にできるから」と言われて。いざテスト本番、部長や同僚に囲まれて、プレゼンしたけれど、5分で終わってしまった。部長は何も言わず、書類をパタンとおいて出て行ってしまった…。

その後、僕が何を言っても何も聞いてくれず、どなられる関係性に。会社の休日は、大学卒業前にAさん達と立ち上げたITベンチャープロジェクトに携わっていて。それが超上手くいっていたのね。だから社会人1年目が終わるころに、ジョインし直そうかなと思い、退職したい旨を会社に伝えた。

衝撃だったのが「これだけ良くしてもらっているのに、お前人としてどうなの」とその部署の先輩に言われたこと。もちろん全く貢献できないままに辞めた、というのもあるんだけど。学生時代から「人に貢献する、人を応援する、社会を変える」ってことに尽力してきたのに。できれば善い生き方をしたいといつも思っていた分、その言葉がズドンときた、それが大きな挫折経験だった。

退社後、京都に帰って、5人で立ち上げたITベンチャーに合流。当社はフラット体制、完全5人の合意ありきで進めようとしていた。当時「京都サーチ縁人(えんじん)」というITシステムを作っていて。大手企業からチャンスをもらっては、社内の合意形成に時間がかかり、チャンスを逃すことを繰り返し、資金も尽きて。仲間割れ前に解散した。でも、自分の特性を仲間が理解してくれていて、とても快適だったな。

yu-ka:そうだったんですね!そこで活かされていた賢州さんの長所(凸)どのような部分ですか?またサポートしてもらっていた部分などはありますか?

嘉村さん:メンバーは、僕の得意なことを活かしてくれたね。例えば、企画力、人との繋がりを作る力、営業力かな。それでも、出来ないこともいっぱいあった。納期に間に合わせることが難しくて、迷惑はかけたかもしれない。あっあと当時の社長が隣に座っていて、僕の荷物が彼の机に侵入しないように、彼は『ベルリンの壁』を作っていたけど、僕の荷物が壁を超えていくという(笑)。

yu-ka:なるほど!ベルリンの壁(笑)。ちなみに、嘉村さんが、ADDと病院で診断されたのはいつ頃ですか?

嘉村さん:ちょうど、そのITベンチャー会社で働いていた時期で、当時25歳だったね。ある日、「西海岸」のふすまをAさんが勢いよく開けるとこからスタートするんだけど。「賢州、俺らこれかもしれん!」と彼が飛び込んできた。

一同:(大爆笑)

嘉村さん:Aさんが「『わかっているのにできない』脳」っていうダニエル・エイメン博士の本を持って、「俺らのことが全部書かれている。読んだら改善されるかもしれない」って話を持ってきた。「また~Aさん、集中力、睡眠法とか、色んな本を読んで、Aさんどれだけ悩んでいるんですか。またちょっと感動してすぐ終わるよ」て言ったら「いや違う!読んで!!」って熱弁されて(笑)。

「わかっているのにできない脳」1 ダニエル・エイメン著
1万人の脳画像から分かるADD脳の仕組みと、6タイプ別ADDにおける具体的な対処法を紹介してくれる。 出典:amazon.co.jp

読んでみたら、すごく当てはまった。ずっと出来ないことに対して罪悪感を持っていたから、その原因が自分たちの責任感の欠如では無かったんだという意味ではほっとした。ちょっとした障害を持っているというショックも少しあったけど。

そこから、空前のADDブームが始まった。周りの皆が、エイメン博士のADDチェックリストを試すというね。社長に隠れて、それ以外の社員で『明日があるさ』の替え歌で、『明日でいいや』というADDソング作り歌い、録画していた(笑)。

あと、日本橋ヨオコ『G戦場ヘヴンズドア』っていう、自分の弱さに甘えているけども、それ乗り越えた先にやっぱり行きたいよねと背中を押してくれる漫画があって。ADDのために難しいことが多いっていうのも分かるけど、それに甘えて何もできないという日々を選びたくないねって、Aさんと語り合った。

「診断してもらって薬でよくなるなら、それを決意しようよ」って2人で決めて。「俺乗り込んでくるわ」と、Aさんが先に大学の精神科に行ったところ、「ADDと言えなくもない」と言われ、薬をもらった。「グレーやったんですね。僕もADDって診断された方が嬉しいから、服を逆さに着て行こうか」って冗談で言いながら、内心ドキドキしていて。もしもADDでは無かったら、ADDと自己診断したときの安堵した気持ちはどうなるんだろう、という不安を抱えながら病院へ行くと、「明らかですね」と言われて、ADDが確定してしまった(笑)。

漫画「G戦場ヘヴンズドア」1,2,3集 日本橋ヨオコ著

■ADD診断当時の嘉村さん自身へのメッセージ:気づいたことであなたらしい素敵な人生が始まるよ

emo:発達凸凹と判明した当時の、賢州さんご自身に向けてのメッセージを、いただけますか?

嘉村さん:それはシンプルだね。「よかったね」というか。ずっと自分を責め続けていたからね。自分の努力不足、とか親のしつけ不足だったんじゃないかと。それまでは、親が厳しくしつけてくれていれば、今頃自分が有言実行できるよう育ったんじゃないか。出したものは元の場所に片付けられるようになったんじゃないか、っていう教育観を持っていた。

でも自分がADDってわかったとき、できないこと(凹)は親のせいっていうのは誤った教育観だなって思ったわけ。「厳しくしつけをする」とか「もっと頑張ればいい」っていう世界観から、「個々のありのままの特性を活かしていく」教育に変えた方がいいんじゃないかと気づいた。

例えば空気が読めない人っているけど、空気を読むセンスを持ち合わせずに、生まれた人に、努力しろと強要するのは違うなって僕は思う。

それは、どうしようもないことだし、軽はずみにその人を嫌うのは違うんじゃない?って。出来ずに生まれてきてしまったことに、寛容になってあげないと。人って嫌われたくて生きている人って誰一人居ないと思うから。

emoさん、診断を受けた時の感想はどうだった?

emo:当時は、ほっとした気持ちもあれば、これからどうなるんだろうっていう不安も大きかったですね。

嘉村さん:そっかそっか。(ペンを置く)

「気づいた事であなたらしい素敵な人生が始まるよ」

当時の自分に向けてのメッセージはこれだね。

「気づいた事であなたらしい素敵な人生が始まるよ」嘉村さんから、診断当時のご自身への素敵なメッセージをいただきました。

yu-ka:なんだか泣きそうです。

 

私にとって、凸凹を活かして全国規模で活躍する嘉村さんは憧れの人生の先輩でした。その嘉村さんが、小学生時代には休み明けの人との距離感が分かりにくくて困っていたり、社会に出てからもADDの自分と似た困りごとを持っていたことに、言葉では表現できない希望と温かさを感じました。ADD診断にいたるエピソードも、ユーモアたっぷりに話してくださって、お人柄の深さを感じずにはいられませんでした。

続く中編では、ADDと診断され、自分の特性を知った嘉村さんが、広く認められることになる天職「ファシリテーター」に向けていよいよ動き出します。

(取材・emo・yu-ka 文:yu-ka 編集:yuh・ emo 撮影:yuh)

「少年時代・ADDに気づくまで」NPO法人 場とつながりラボhome’s vi 代表理事 嘉村 賢州さん(前編)” に対して1件のコメントがあります。

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